「その日」 そもそものきっかけ・39日間の物語 第四話

砂浜美術館館長のニタリクジラ

↑砂浜美術館館長のニタリクジラ

クジラも松原もみんな作品

かくして5月26日(金)。わたしと畦地、町の広報担当の浜田啓(当時)、そして梅原さんの4人は役場の町長室に町長を訪ねました。梅原さんとの出会いからわずか6日後のことでした。

わたしたちは、この企画を坂本義春町長(当時)を前に一気にまくしたて説明しました。が、むっつり屋の異名をもつ坂本町長からは反応がありません。

作戦通り振興計画(*1)への位置付けも話しましたが、これはTシャツを並べて砂像をつくるだけではどう考えても説得力に欠けていました。「考え方が大切」といっていた梅原さんも、なぜか慎重で、黙り込んだままです。

町長を前に一同が考え込んでいるところに、浜田が口火を切りました。「別にTシャツや砂の彫刻だけが作品と考えなくても、沖を泳いでいるクジラも、松原も、みんな作品(*2)として考えたらええと思う」というのです。

すると今度は、それを横で聞いていた梅原さんが、やおら大きくバシッとひざを叩くと、大きな声で「でけた!」と叫びました(何が「でけた」のかは、後でわかります)。

砂浜の風景写真をライフワークとしている浜田氏(砂浜美術館パンフレットより)

↑砂浜の風景写真をライフワークとしている浜田氏(砂浜美術館パンフレットより)

この年、坂本町長は大方町の振興計画を一新し、それに伴って役場の機構改革も行っています。また、ふるさと創生事業は、そのほとんどを松原再生事業に使う決定を行い、7月には全国の松原景勝地の関係者を招いて、大方町(*3)で松原サミットを行う準備を進めているところでした。

さらに、この年には、後年に全国規模で人気となるホエールウォッチングがかたちになりつつありました。砂浜に目を向けると、この長さ4キロの「月見が浜」とも呼ばれる白砂青松の浜の活用も町議会でたびたび議論されてきた経緯がありました。

浜田の一言で梅原さんの発言は現実的なイメージになり、そしてわたしたちの話のさいごまで聞いた坂本町長はこういいました。

「何もしなければ、何も変わらん。失敗してもいいから、とにかくやってみろ」

【『砂浜美術館ノート』(1997年発行・非売品)より】

第五話「Tシャツ売って20万円つくる」
第三話「大方の者(もん)は元気があるやんか」

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≪語り手≫
松本 敏郎(まつもと としろう)

砂浜美術館informal学芸員(*4)で、砂浜美術館立ち上げメンバーの一人。
現在は、南海トラフ巨大地震の被害想定において、日本一高い津波高34.4メートルを突きつけられた高知県黒潮町の情報防災課長として、「犠牲者ゼロ」を目標に、「南海地震とうまく付き合い、千年に耐えられるまちづくり」に取り組む。

●註

*1 振興計画 地方自治法で市町村は基本構想を定めるよう義務付けられている。構想や計画は通常10年ごとに作られる。
*2 みんな作品 砂浜の風景写真をライフワークとしている浜田氏だからこその発言。氏はまた流木の作品で県展立体の部特選を受賞。
*3 大方町 2005年大方町は佐賀町と合併し、黒潮町が誕生。
*4 informal学芸員 以前、名刺に「砂浜美術館学芸員」と入れたところ、「学芸員は国家資格」と指摘され、以来informarl付き。

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立ち上げに携わったスタッフとメンバーも入れ替わり、地域内外とさまざまな人が関わりながら活動を継続してきた砂浜美術館。そんな人びとのインタビューやエピソードを交えながら、1997年から2008年までの10年間の活動記録を掲載しています。

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