「その日」 そもそものきっかけ・39日間の物語 第二話

Tシャツアート展よりも歴史の長い「はだしマラソン」

↑Tシャツアート展よりも歴史の長い「はだしマラソン」

砂浜美術館誕生への布石

この振興計画(*1)の中には「今、意識するべきものは、自然・人・そして時」「松原を中心とした世界の人との交流基地づくり」「創造文化・シーサイドギャラリー」といった、いま考えると、砂浜美術館誕生への布石となるような言葉がいくつも出ています。

特筆すべきは、古(いにしえ)より町のシンボルとして町民に親しまれてきた入野松原の再生を宣言していることです。当時、松原は松食い虫の大きな被害にあい、壊滅的な状況でした。

わたしが振興計画の新しい担当者となったときは、計画自体はすでにまとめられていました。それは、じつに2年がかりで多くの町民から意見を聞いたという労作でした。

そのため、さしあたってのわたしの仕事は、振興計画案を町議会へ提出して議会で承認を得ることと、そして冊子にまとめることでした。議会への提出準備を進める一方で、製本するに当たってデザインを誰に頼もうかと悩み、振興計画づくりに協力された若竹まちづくり研究所(高知市)の兼松方彦さんに相談しました。

兼松さんは「梅原真さんに頼むといい」と、梅原さんのデザイン作品として同じ幡多郡の十和村の振興計画を見せてくれました。その表紙を見て、わたしは「ドキッ!」としました。

「十和のものさし」というタイトルの下に、マジックで線を書き込んだ板切れがぽつんとあります(あとで本人に聞いたら、この板切れは、梅原さんが当時住んでいた家の庭で拾ったものでした)。そして板切れのものさしの右下に「自然が大事・人が大事・ヤル気が大事」と書かれていました。そしてわたしは、頼むなら梅原さんしかいないと思ったのでした。

シーサイドギャラリー90・秋 砂浜でバーベキューを楽しむ「海賊たちの晩餐」

↑シーサイドギャラリー90・秋 砂浜でバーベキューを楽しむ「海賊たちの晩餐」

さて、同じ年の5月20日(土)のことです。その日、わたしは畦地和也(大方町教育委員会社会教育係・当時)(*2)とともに、陸上競技の審判員の実技講習を受けるために高知市と隣接する春野町に行っていました。それでどうせ梅原さんのデザイン事務所がある高知市の近くまで行くのだから、兼松さんも誘って帰りに事務所を訪ねてみようということになったのです。

それにしても、この年に高知県でインターハイが開かれたこと(審判講習はそのためのもの)や、たまたまわたしも畦地も陸上競技をしていたこと、そして梅原さんや兼松さんの日程が空いていたことなど、いくつもの偶然が積み重なっての出会いでした。

じつは畦地には講習後に用事があったのですが、「30分くらいですむから一緒につきあってくれ」とわたしが強引に誘ったのでした。

【『砂浜美術館ノート』(1997年発行・非売品)より】

第三話「大方の者(もん)は元気があるやんか」
第一話「少し大人になってわかったことがある」

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≪語り手≫
松本 敏郎(まつもと としろう)

砂浜美術館informal学芸員(*3)で、砂浜美術館立ち上げメンバーの一人。
現在は、南海トラフ巨大地震の被害想定において、日本一高い津波高34.4メートルを突きつけられた高知県黒潮町の情報防災課長として、「犠牲者ゼロ」を目標に、「南海地震とうまく付き合い、千年に耐えられるまちづくり」に取り組む。

●註

*1 振興計画 地方自治法で市町村は基本構想を定めるよう義務付けられている。構想や計画は通常10年ごとに作られる。
*2 社会教育係 社会教育とは学校教育以外のすべてのこと。ちなみに畦地氏の前任者は松本氏である。
*3 informal学芸員 以前、名刺に「砂浜美術館学芸員」と入れたところ、「学芸員は国家資格」と指摘され、以来informarl付き。

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立ち上げに携わったスタッフとメンバーも入れ替わり、地域内外とさまざまな人が関わりながら活動を継続してきた砂浜美術館。そんな人びとのインタビューやエピソードを交えながら、1997年から2008年までの10年間の活動記録を掲載しています。

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